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第3話 追放者を狩る牙

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-27 08:21:54

 遠吠えが途切れたあとも、雪原はしばらく声の余韻を抱いていた。

 低く、短く、三つ。

 リュシエナは北へ向けていた足を止めないまま、母の外套の内側で薬草袋を握り締めた。

 あれは群れの狼なら誰でも知っている合図だった。右から追い立てる者、左を塞ぐ者、正面で獲物の動きを止める者。それぞれの位置を、遠吠えの高さと長さで知らせ合う。

 三頭いる。

 閉ざされた門の向こうで、爪が石を蹴る音がした。

 次いで、重い閂が持ち上げられる。

 リュシエナは振り返らなかった。

 薄い礼装靴で雪を踏み、丘の北斜面へ急ぐ。雪は脛近くまで積もり、一歩進むたびに足を取られた。冷水を吸った靴の中で爪先の感覚は消え、息を吸うたび、月環に裂かれた喉がひりつく。

 背後で門が開いた。

 祝宴の音楽が、ほんの一瞬だけ大きく聞こえた。

 直後、風を裂く足音が三つ、雪原へ放たれる。

 速い。

 人の足で競える速さではなかった。

 狼へ変じられる者なら、ここで獣魂を解き放ち、四本の脚で森へ駆け込める。けれど、リュシエナの内側に狼の姿はない。どれほど胸へ呼びかけても、長いあいだ返ってきたのは空虚な沈黙だけだった。

 それでも彼女は、恐怖のまま直線には走らなかった。

 風は東から吹いている。

 北斜面の先には、雪に埋もれた白樺の林がある。その西側には、冬になると表面だけが凍る細い沢が流れていた。沢沿いには獣の掘った穴が多く、雪の下には折れた枝や露出した根が隠れている。

 リュシエナは雪の下に見える僅かな窪みを選び、斜めに丘を下った。

 備蓄係だった頃、冬の薬草が足りないと言われるたび、彼女はこの森へ入った。護衛を頼めば余計な人手を使うなと叱られ、籠と小刀だけを持たされて。凍った沢も、眠る熊の巣も、雪の下で赤い実を残す低木も、自分の足で覚えた。

 あの頃の寒さが、今になって道を教えている。

 後方から唸り声が近づく。

 ちらりと肩越しに見ると、月光を弾く銀色の影が丘を下っていた。

 一頭ではない。

 三頭の狼が、互いに距離を保って走ってくる。

 中央の一頭は頭を低くし、リュシエナだけを見ていた。残る二頭は左右へ広がり、白樺の林を大きく回り込もうとしている。

 群れを追われた者が境界を越えるまで見届ける護送ではない。

 逃げ道を塞ぎ、疲れさせ、確実に喉を取るための動きだった。

 狩りだ。

 胸の奥が、冷たい指で掴まれたように縮む。

 財布も短剣も家名も奪われ、門の外へ捨てられた。それでも彼らには足りないのだ。

 生きて領地を出ることさえ許さない。

 雪を踏み抜き、右足が深く沈んだ。

 身体が前へ傾く。

 咄嗟に白樺の幹へ手をついた。荒れた樹皮が掌を削る。その脇を、銀狼の影が飛ぶように横切った。

 先回りされた。

 右手の林に一頭。

 左の斜面に一頭。

 背後から、中央の一頭。

 リュシエナは立ち止まらず、薬草袋の口を歯で引いた。

 指先がかじかみ、結び目が解けない。爪を差し込み、何度も引く。袋がようやく開くと、乾いた砕き根の刺激臭が漏れ出した。

 噛めば舌が痺れ、粉が目に入れば大人でもしばらく開けられない。薬草庫では虫除けや、冬眠前の獣を薬畑へ寄せつけないために使っていた。

 だが、粉にしなければ役に立たない。

 リュシエナは雪から突き出た平たい石を見つけ、その前へ膝をついた。砕き根を置き、別の石で叩く。

 一度。

 二度。

 乾いた根が裂け、黄色みを帯びた粉が散った。

 時間がない。

 狼の荒い呼吸が、もう背中へ届いている。

 外套の裾を掴む。母の遺品を裂くことに一瞬だけ指が止まった。けれど、このまま死ねば、外套も雪の中で腐るだけだ。

「お母様……少しだけ、お借りします」

 擦り切れた縫い目へ指を差し込み、布を引き裂いた。

 粉を包む。

 結ぶ余裕はない。掌の中で強く握り込み、立ち上がった。

 ほとんど同時に、背後の雪が大きく鳴った。

 リュシエナは振り向かない。

 狼が飛びかかる直前には、風の音が消える。幼い頃、狩人たちから聞いた言葉を思い出していた。

 唸り声が途切れる。

 頭上へ影が落ちた。

 その瞬間、身を沈め、掌の包みを後ろへ叩きつけた。

 布が狼の鼻先へ当たり、砕き根の粉が弾ける。

 獣の咆哮が夜気を裂いた。

 銀狼は着地に失敗し、鼻面を雪へ突っ込む。前脚で顔を掻き、激しく首を振った。涙で濡れた目は開かず、鼻から苦しげな音を漏らしている。

 効いた。

 安堵したのは、ほんの一瞬だった。

 右側の木立から、二頭目が飛び出す。

 視界の端で銀の毛並みが膨らんだ。

 避けようと身体を捻る。

 間に合わない。

 鋭い爪が外套を引き裂き、その下の背へ食い込んだ。

「ああっ……!」

 喉から短い悲鳴が迸る。

 布と皮膚が一緒に裂ける音がした。

 衝撃で息を失い、リュシエナは雪へ倒れ込んだ。頬が凍った表面へ打ちつけられる。口の中に冷たい雪と鉄の味が広がった。

 背中が熱い。

 次いで、脈打つたびに焼けた刃を差し込まれるような痛みが走る。外套の裂け目から血が溢れ、雪へ赤い斑点を作った。

 銀狼がすぐそばへ降り立つ。

 太い前脚が視界に入った。

 その毛の間に、黒く染めた革紐が巻かれている。

 中央へ銀の鋲を一つ打ち込んだ、細い革紐。

 銀嶺狼群の北門を守る番兵だけが、狼の姿でも所属を示せるよう前脚へ巻くものだった。

 見覚えがある。

 門前で財布を奪った男の手首にも、同じ革紐が巻かれていた。人の姿では腕へ、狼へ変じた時には前脚へ残る、番兵の印。

 野に棲む狼ではない。

 群れを離れた追放者を監視するため、偶然ついてきた者でもない。

 自分を北門から送り出した者たちだ。

 リュシエナは雪へ手をつき、痛みに震えながら顔を上げた。

「追放だけでは、足りなかったの……?」

 銀狼の耳が、僅かに後ろへ倒れた。

 言葉を理解している。

 しかし、答えの代わりに上唇が捲れ、濡れた牙が現れた。

 口の奥から生臭い息が吹きつける。

 牙が首へ向かって落ちてくる。

 リュシエナは雪を掴み、狼の目へ投げつけた。

 獣が一瞬、顔を逸らす。

 その隙に身を起こし、斜面へ駆けた。背の傷が開き、外套の内側を流れる血が腰まで伝う。

 正面には白樺の低木が密集している。

 避けるのではなく、枝の中へ飛び込んだ。

 細い枝が頬を打ち、髪へ絡む。外套の裂けた裾が棘へ引かれた。狼の巨体では通りにくい隙間を、腕で枝を押し分けながら進む。

 背後で木が折れた。

 三頭目が回り込んでくる。

 右からは、砕き根を浴びた狼のくしゃみと唸り声。左からは低い足音。逃げられる方角を狭められている。

 白樺の間を抜けると、地面が不意に途切れた。

 沢へ落ち込む斜面だった。

 下には細い水の流れがあり、月光を受けた氷が薄青く光っている。夏なら膝ほどの深さしかない。だが雪解け前の水は底まで冷たく、落ちれば人の身体から瞬く間に熱を奪う。

 背後の枝が大きく撓った。

 銀狼が迫っている。

 左へ逃げれば、別の一頭が待つ。右へ戻れば、目を傷めた狼がいる。

 残された道は、下だけだった。

 リュシエナは母の外套の留め具を握った。

 脱げば泳ぎやすくなる。けれど、濡れた礼装だけでは雪の森を越えられない。

 留め具を外さず、両腕で頭を庇う。

 牙が外套の後ろを掠めた。

 リュシエナは斜面へ身を投げた。

 雪と土が視界の中で回る。

 肩を打ち、腰を根へぶつけ、止める間もなく沢へ落ちた。

 氷が割れる音は、鐘のように鋭かった。

 冷水が全身を呑み込む。

 息が肺から叩き出された。

 無数の針を突き立てられたように身体が強張り、指も脚も動かなくなる。

 濡れた外套が石のように重くなり、底へ引く。

 水面の向こうで、銀狼の影が揺れている。

 このまま沈めば、彼らに殺されずに済む。

 そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。

 だが、暗い水の中で、エナラの声が蘇った。

 ――どうか、生きてください。

 リュシエナは歯を食いしばり、川底を蹴った。

 足は思うように動かない。流れに押され、割れた氷の縁へ肩をぶつける。水を飲み、胸が焼けるように痛んだ。それでも指を伸ばし、岸から垂れた根を掴む。

 爪が剥がれそうになりながら、身体を引き上げた。

 氷の上へ這い出した途端、激しく咳き込む。吐いた水が雪へ黒い穴を開けた。

 対岸で、二頭の銀狼が足を止めている。

 凍った沢へ入れば、濡れた毛に体温を奪われると知っているのだ。

 一頭が上流へ向きを変えた。

 浅い場所を通り、反対岸へ回り込むつもりだ。

 時間はない。

 リュシエナは震える腕で立ち上がった。

 外套から水が流れ落ち、雪へ暗い筋を残す。背中の傷から滲む血が混じり、足跡は赤く染まった。

 薬草袋を探す。

 革袋は腰紐へ結びついたままだった。濡れた指で口を開き、止血用の白葉を噛み砕く。渋みと青臭さが舌へ広がった。手の届く範囲で背へ押し込み、裂けた外套を身体へきつく巻きつける。

 十分な手当てではないが、血を流し続けるよりはいい。

 沢沿いを下流へ進んだ。

 冷えきった脚は、歩くたび自分のものではないように遅れる。肺が空気を求めてひきつり、濡れた髪が頬へ凍りついた。

 背後で氷を踏む音がする。

 一頭が沢を越えた。

 急がなければならない。

 けれど森の景色は、吹雪の中で少しずつ輪郭を失っていった。

 見慣れた白樺が減っている。

 代わりに、幹の黒い針葉樹が空を覆い始めた。枝葉が月明かりを遮り、昼でも夜のように暗い森を作っている。

 リュシエナは足を止めた。

 目の前の樹木に、深い刃物の跡がある。

 三本の爪痕を囲む、黒い王冠。

 黒曜狼国《ヴァルグラッド》の国境標だった。

 銀嶺では幼い子どもでさえ、この印へ近づくなと教えられる。黒狼は月を恐れず、捕らえた敵を冬の宴で引き裂く。国境を越えた銀狼は二度と帰れない。そう聞かされ続けてきた。

 戻れば、追ってきた狼に殺される。

 進めば、敵国に捕らえられる。

 背後から、雪を踏み潰す音が近づいた。

 リュシエナは黒い王冠の印へ触れた。

 凍った樹皮が掌へ食い込む。

 少なくとも、この先で待つ者は、まだ彼女を裏切ってはいない。

 リュシエナは国境標を越えた。

 黒い森を選んだ。

 針葉樹の下は雪が浅い。だが、光も風向きも分からず、どちらへ進んでいるのか次第に曖昧になった。

 何度も木の幹へ肩をぶつけた。膝が折れるたび、腕で身体を支え、また立ち上がる。動きを止めれば、そのまま凍りつくと分かっていた。

 それでも、身体には限界がある。

 やがて右脚が前へ出なくなった。

 巨大な針葉樹の根元へ手を伸ばす。指は幹を掴めず、空を滑った。

 リュシエナは雪へ膝をついた。

 立たなければと思う。

 命令しても、脚は動かない。

 母の外套を胸へ抱き込むようにして、太い根の傍らへ倒れた。

 頭上で枝が揺れ、積もっていた雪が肩へ落ちる。

 遠くで、足音が止まった。

 追跡を諦めたのだろうか。

 そう思った直後、木々の間から銀狼が姿を現した。

 沢を回り込んだ一頭だった。

 獣は雪に残った血の跡へ鼻を寄せ、ゆっくりこちらへ近づいてくる。もう急ぐ必要はないと知っている歩みだった。

 リュシエナは薬草袋へ手を伸ばした。

 砕き根は、ほとんど残っていない。

 指も動かなかった。

 銀狼は数歩手前で止まり、低く唸った。

 骨の形が変わる音がする。

 銀の毛並みが身体へ沈み、前脚が人の腕へ、後脚が長い脚へ変わっていく。白い吐息の中で立ち上がったのは、顔の下半分を布で覆った男だった。

 北門にいた番兵と同じ革鎧を着ている。

 だが、目元まで影になり、顔は判別できない。

 男は腰から剣を抜いた。

 月光の届かない森でも、刃元へ刻まれた銀嶺狼群の紋だけは白く浮かんだ。

「まさか沢へ入るとはな」

 声にも覚えがない。

 あるいは、聞き覚えを持たせぬよう低く変えているのかもしれない。

 リュシエナは樹木の根へ背を預けた。

「誰の命令ですか」

「知る必要はない」

「私が盗んだとされている物を、取り戻さなくてよいのですか」

 男の目が僅かに細くなる。

 答えない。

 それだけで十分だった。

 窃盗の罪で追われているなら、殺す前に所持品や在り処を問うはずだ。彼らが欲しいのは月印ではない。

 ただ、彼女の口を永遠に閉ざしたいのだ。

 男は一歩近づいた。

 雪を踏む音が、妙に静かな森へ沈む。

「悪く思うな。お前には、国境を越えてもらっては困るそうだ」

「では、追放命令は……」

「最初から、門の外で終わるはずだった」

 誰が終わらせようとしたのか。

 父か。

 ローディクか。

 ラヴィナか。

 それとも、月環の黒い染みを箱へ隠したオルディスか。

 問いは喉まで上がったが、男が答えるとは思えなかった。

 剣が持ち上がる。

 黒い刃先が、僅かな月明かりを弾いた。

 リュシエナは逃げなかった。

 逃げられなかった。

 ただ目を閉じず、自分を殺す男の顔を最後まで見ようとした。

「できるなら、エナラには何もしないでください」

「……誰だ、それは」

「何でもありません」

 自分を生かそうとした者の名を、これ以上この男へ渡してはならない。

 剣を握る腕へ力が入る。

 刃が振り下ろされる、その瞬間だった。

 男の背後で、雪が低く鳴った。

 風ではない。

 枝の軋みでもない。

 深い地の底から這い上がり、幹から幹へ伝わるような唸り声だった。

 剣が止まる。

 男の目が見開かれた。

 振り返った彼の頭上、巨大な針葉樹の根が盛り上がった場所に、黒い影が立っていた。

 夜そのものを毛皮にしたような狼。

 四本の脚で雪を踏みながら、その背は馬よりも高い。吐き出す息は白い霧となり、暗い金色の両眼だけが、黒い森の中で燃えていた。

 巨大な黒狼は牙を見せなかった。

 ただ、剣を振り上げた男を見下ろしていた。

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