LOGIN遠吠えが途切れたあとも、雪原はしばらく声の余韻を抱いていた。
低く、短く、三つ。
リュシエナは北へ向けていた足を止めないまま、母の外套の内側で薬草袋を握り締めた。
あれは群れの狼なら誰でも知っている合図だった。右から追い立てる者、左を塞ぐ者、正面で獲物の動きを止める者。それぞれの位置を、遠吠えの高さと長さで知らせ合う。
三頭いる。
閉ざされた門の向こうで、爪が石を蹴る音がした。
次いで、重い閂が持ち上げられる。
リュシエナは振り返らなかった。
薄い礼装靴で雪を踏み、丘の北斜面へ急ぐ。雪は脛近くまで積もり、一歩進むたびに足を取られた。冷水を吸った靴の中で爪先の感覚は消え、息を吸うたび、月環に裂かれた喉がひりつく。
背後で門が開いた。
祝宴の音楽が、ほんの一瞬だけ大きく聞こえた。
直後、風を裂く足音が三つ、雪原へ放たれる。
速い。
人の足で競える速さではなかった。
狼へ変じられる者なら、ここで獣魂を解き放ち、四本の脚で森へ駆け込める。けれど、リュシエナの内側に狼の姿はない。どれほど胸へ呼びかけても、長いあいだ返ってきたのは空虚な沈黙だけだった。
それでも彼女は、恐怖のまま直線には走らなかった。
風は東から吹いている。
北斜面の先には、雪に埋もれた白樺の林がある。その西側には、冬になると表面だけが凍る細い沢が流れていた。沢沿いには獣の掘った穴が多く、雪の下には折れた枝や露出した根が隠れている。
リュシエナは雪の下に見える僅かな窪みを選び、斜めに丘を下った。
備蓄係だった頃、冬の薬草が足りないと言われるたび、彼女はこの森へ入った。護衛を頼めば余計な人手を使うなと叱られ、籠と小刀だけを持たされて。凍った沢も、眠る熊の巣も、雪の下で赤い実を残す低木も、自分の足で覚えた。
あの頃の寒さが、今になって道を教えている。
後方から唸り声が近づく。
ちらりと肩越しに見ると、月光を弾く銀色の影が丘を下っていた。
一頭ではない。
三頭の狼が、互いに距離を保って走ってくる。
中央の一頭は頭を低くし、リュシエナだけを見ていた。残る二頭は左右へ広がり、白樺の林を大きく回り込もうとしている。
群れを追われた者が境界を越えるまで見届ける護送ではない。
逃げ道を塞ぎ、疲れさせ、確実に喉を取るための動きだった。
狩りだ。
胸の奥が、冷たい指で掴まれたように縮む。
財布も短剣も家名も奪われ、門の外へ捨てられた。それでも彼らには足りないのだ。
生きて領地を出ることさえ許さない。
雪を踏み抜き、右足が深く沈んだ。
身体が前へ傾く。
咄嗟に白樺の幹へ手をついた。荒れた樹皮が掌を削る。その脇を、銀狼の影が飛ぶように横切った。
先回りされた。
右手の林に一頭。
左の斜面に一頭。
背後から、中央の一頭。
リュシエナは立ち止まらず、薬草袋の口を歯で引いた。
指先がかじかみ、結び目が解けない。爪を差し込み、何度も引く。袋がようやく開くと、乾いた砕き根の刺激臭が漏れ出した。
噛めば舌が痺れ、粉が目に入れば大人でもしばらく開けられない。薬草庫では虫除けや、冬眠前の獣を薬畑へ寄せつけないために使っていた。
だが、粉にしなければ役に立たない。
リュシエナは雪から突き出た平たい石を見つけ、その前へ膝をついた。砕き根を置き、別の石で叩く。
一度。
二度。
乾いた根が裂け、黄色みを帯びた粉が散った。
時間がない。
狼の荒い呼吸が、もう背中へ届いている。
外套の裾を掴む。母の遺品を裂くことに一瞬だけ指が止まった。けれど、このまま死ねば、外套も雪の中で腐るだけだ。
「お母様……少しだけ、お借りします」
擦り切れた縫い目へ指を差し込み、布を引き裂いた。
粉を包む。
結ぶ余裕はない。掌の中で強く握り込み、立ち上がった。
ほとんど同時に、背後の雪が大きく鳴った。
リュシエナは振り向かない。
狼が飛びかかる直前には、風の音が消える。幼い頃、狩人たちから聞いた言葉を思い出していた。
唸り声が途切れる。
頭上へ影が落ちた。
その瞬間、身を沈め、掌の包みを後ろへ叩きつけた。
布が狼の鼻先へ当たり、砕き根の粉が弾ける。
獣の咆哮が夜気を裂いた。
銀狼は着地に失敗し、鼻面を雪へ突っ込む。前脚で顔を掻き、激しく首を振った。涙で濡れた目は開かず、鼻から苦しげな音を漏らしている。
効いた。
安堵したのは、ほんの一瞬だった。
右側の木立から、二頭目が飛び出す。
視界の端で銀の毛並みが膨らんだ。
避けようと身体を捻る。
間に合わない。
鋭い爪が外套を引き裂き、その下の背へ食い込んだ。
「ああっ……!」
喉から短い悲鳴が迸る。
布と皮膚が一緒に裂ける音がした。
衝撃で息を失い、リュシエナは雪へ倒れ込んだ。頬が凍った表面へ打ちつけられる。口の中に冷たい雪と鉄の味が広がった。
背中が熱い。
次いで、脈打つたびに焼けた刃を差し込まれるような痛みが走る。外套の裂け目から血が溢れ、雪へ赤い斑点を作った。
銀狼がすぐそばへ降り立つ。
太い前脚が視界に入った。
その毛の間に、黒く染めた革紐が巻かれている。
中央へ銀の鋲を一つ打ち込んだ、細い革紐。
銀嶺狼群の北門を守る番兵だけが、狼の姿でも所属を示せるよう前脚へ巻くものだった。
見覚えがある。
門前で財布を奪った男の手首にも、同じ革紐が巻かれていた。人の姿では腕へ、狼へ変じた時には前脚へ残る、番兵の印。
野に棲む狼ではない。
群れを離れた追放者を監視するため、偶然ついてきた者でもない。
自分を北門から送り出した者たちだ。
リュシエナは雪へ手をつき、痛みに震えながら顔を上げた。
「追放だけでは、足りなかったの……?」
銀狼の耳が、僅かに後ろへ倒れた。
言葉を理解している。
しかし、答えの代わりに上唇が捲れ、濡れた牙が現れた。
口の奥から生臭い息が吹きつける。
牙が首へ向かって落ちてくる。
リュシエナは雪を掴み、狼の目へ投げつけた。
獣が一瞬、顔を逸らす。
その隙に身を起こし、斜面へ駆けた。背の傷が開き、外套の内側を流れる血が腰まで伝う。
正面には白樺の低木が密集している。
避けるのではなく、枝の中へ飛び込んだ。
細い枝が頬を打ち、髪へ絡む。外套の裂けた裾が棘へ引かれた。狼の巨体では通りにくい隙間を、腕で枝を押し分けながら進む。
背後で木が折れた。
三頭目が回り込んでくる。
右からは、砕き根を浴びた狼のくしゃみと唸り声。左からは低い足音。逃げられる方角を狭められている。
白樺の間を抜けると、地面が不意に途切れた。
沢へ落ち込む斜面だった。
下には細い水の流れがあり、月光を受けた氷が薄青く光っている。夏なら膝ほどの深さしかない。だが雪解け前の水は底まで冷たく、落ちれば人の身体から瞬く間に熱を奪う。
背後の枝が大きく撓った。
銀狼が迫っている。
左へ逃げれば、別の一頭が待つ。右へ戻れば、目を傷めた狼がいる。
残された道は、下だけだった。
リュシエナは母の外套の留め具を握った。
脱げば泳ぎやすくなる。けれど、濡れた礼装だけでは雪の森を越えられない。
留め具を外さず、両腕で頭を庇う。
牙が外套の後ろを掠めた。
リュシエナは斜面へ身を投げた。
雪と土が視界の中で回る。
肩を打ち、腰を根へぶつけ、止める間もなく沢へ落ちた。
氷が割れる音は、鐘のように鋭かった。
冷水が全身を呑み込む。
息が肺から叩き出された。
無数の針を突き立てられたように身体が強張り、指も脚も動かなくなる。
濡れた外套が石のように重くなり、底へ引く。
水面の向こうで、銀狼の影が揺れている。
このまま沈めば、彼らに殺されずに済む。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
だが、暗い水の中で、エナラの声が蘇った。
――どうか、生きてください。
リュシエナは歯を食いしばり、川底を蹴った。
足は思うように動かない。流れに押され、割れた氷の縁へ肩をぶつける。水を飲み、胸が焼けるように痛んだ。それでも指を伸ばし、岸から垂れた根を掴む。
爪が剥がれそうになりながら、身体を引き上げた。
氷の上へ這い出した途端、激しく咳き込む。吐いた水が雪へ黒い穴を開けた。
対岸で、二頭の銀狼が足を止めている。
凍った沢へ入れば、濡れた毛に体温を奪われると知っているのだ。
一頭が上流へ向きを変えた。
浅い場所を通り、反対岸へ回り込むつもりだ。
時間はない。
リュシエナは震える腕で立ち上がった。
外套から水が流れ落ち、雪へ暗い筋を残す。背中の傷から滲む血が混じり、足跡は赤く染まった。
薬草袋を探す。
革袋は腰紐へ結びついたままだった。濡れた指で口を開き、止血用の白葉を噛み砕く。渋みと青臭さが舌へ広がった。手の届く範囲で背へ押し込み、裂けた外套を身体へきつく巻きつける。
十分な手当てではないが、血を流し続けるよりはいい。
沢沿いを下流へ進んだ。
冷えきった脚は、歩くたび自分のものではないように遅れる。肺が空気を求めてひきつり、濡れた髪が頬へ凍りついた。
背後で氷を踏む音がする。
一頭が沢を越えた。
急がなければならない。
けれど森の景色は、吹雪の中で少しずつ輪郭を失っていった。
見慣れた白樺が減っている。
代わりに、幹の黒い針葉樹が空を覆い始めた。枝葉が月明かりを遮り、昼でも夜のように暗い森を作っている。
リュシエナは足を止めた。
目の前の樹木に、深い刃物の跡がある。
三本の爪痕を囲む、黒い王冠。
黒曜狼国《ヴァルグラッド》の国境標だった。
銀嶺では幼い子どもでさえ、この印へ近づくなと教えられる。黒狼は月を恐れず、捕らえた敵を冬の宴で引き裂く。国境を越えた銀狼は二度と帰れない。そう聞かされ続けてきた。
戻れば、追ってきた狼に殺される。
進めば、敵国に捕らえられる。
背後から、雪を踏み潰す音が近づいた。
リュシエナは黒い王冠の印へ触れた。
凍った樹皮が掌へ食い込む。
少なくとも、この先で待つ者は、まだ彼女を裏切ってはいない。
リュシエナは国境標を越えた。
黒い森を選んだ。
針葉樹の下は雪が浅い。だが、光も風向きも分からず、どちらへ進んでいるのか次第に曖昧になった。
何度も木の幹へ肩をぶつけた。膝が折れるたび、腕で身体を支え、また立ち上がる。動きを止めれば、そのまま凍りつくと分かっていた。
それでも、身体には限界がある。
やがて右脚が前へ出なくなった。
巨大な針葉樹の根元へ手を伸ばす。指は幹を掴めず、空を滑った。
リュシエナは雪へ膝をついた。
立たなければと思う。
命令しても、脚は動かない。
母の外套を胸へ抱き込むようにして、太い根の傍らへ倒れた。
頭上で枝が揺れ、積もっていた雪が肩へ落ちる。
遠くで、足音が止まった。
追跡を諦めたのだろうか。
そう思った直後、木々の間から銀狼が姿を現した。
沢を回り込んだ一頭だった。
獣は雪に残った血の跡へ鼻を寄せ、ゆっくりこちらへ近づいてくる。もう急ぐ必要はないと知っている歩みだった。
リュシエナは薬草袋へ手を伸ばした。
砕き根は、ほとんど残っていない。
指も動かなかった。
銀狼は数歩手前で止まり、低く唸った。
骨の形が変わる音がする。
銀の毛並みが身体へ沈み、前脚が人の腕へ、後脚が長い脚へ変わっていく。白い吐息の中で立ち上がったのは、顔の下半分を布で覆った男だった。
北門にいた番兵と同じ革鎧を着ている。
だが、目元まで影になり、顔は判別できない。
男は腰から剣を抜いた。
月光の届かない森でも、刃元へ刻まれた銀嶺狼群の紋だけは白く浮かんだ。
「まさか沢へ入るとはな」
声にも覚えがない。
あるいは、聞き覚えを持たせぬよう低く変えているのかもしれない。
リュシエナは樹木の根へ背を預けた。
「誰の命令ですか」
「知る必要はない」
「私が盗んだとされている物を、取り戻さなくてよいのですか」
男の目が僅かに細くなる。
答えない。
それだけで十分だった。
窃盗の罪で追われているなら、殺す前に所持品や在り処を問うはずだ。彼らが欲しいのは月印ではない。
ただ、彼女の口を永遠に閉ざしたいのだ。
男は一歩近づいた。
雪を踏む音が、妙に静かな森へ沈む。
「悪く思うな。お前には、国境を越えてもらっては困るそうだ」
「では、追放命令は……」
「最初から、門の外で終わるはずだった」
誰が終わらせようとしたのか。
父か。
ローディクか。
ラヴィナか。
それとも、月環の黒い染みを箱へ隠したオルディスか。
問いは喉まで上がったが、男が答えるとは思えなかった。
剣が持ち上がる。
黒い刃先が、僅かな月明かりを弾いた。
リュシエナは逃げなかった。
逃げられなかった。
ただ目を閉じず、自分を殺す男の顔を最後まで見ようとした。
「できるなら、エナラには何もしないでください」
「……誰だ、それは」
「何でもありません」
自分を生かそうとした者の名を、これ以上この男へ渡してはならない。
剣を握る腕へ力が入る。
刃が振り下ろされる、その瞬間だった。
男の背後で、雪が低く鳴った。
風ではない。
枝の軋みでもない。
深い地の底から這い上がり、幹から幹へ伝わるような唸り声だった。
剣が止まる。
男の目が見開かれた。
振り返った彼の頭上、巨大な針葉樹の根が盛り上がった場所に、黒い影が立っていた。
夜そのものを毛皮にしたような狼。
四本の脚で雪を踏みながら、その背は馬よりも高い。吐き出す息は白い霧となり、暗い金色の両眼だけが、黒い森の中で燃えていた。
巨大な黒狼は牙を見せなかった。
ただ、剣を振り上げた男を見下ろしていた。
黒森の旧祭壇でヴァルゼインと別れた翌夜、レグナードは王都から北西へ二日ほど離れた古い狩猟館にいた。グレイヴァルが生きていた頃には王族の冬狩りに使われていた建物だが、反乱後に王家の所有記録から外され、今では街道図にも載っていない。暖炉には火が入っているものの、長年使われていなかった石壁には湿った冷気が染みつき、窓の外では細かな雪が森を白く埋めていた。レグナードは卓上へ広げた黒曜王国の地図を眺めながら、旧祭壇で見た銀狼の女の言葉を思い返していた。《私は連れてこられたのではありません。自分で来ました》あの一言だけが、妙に耳へ残っている。王の運命の番として守られ、黒曜城へ囲われている女だと思っていたが、実際のリュシエナは想像より扱いにくかった。ヴァルゼインの後ろへ隠れず、前へ出て庇わせることもせず、同じ位置へ立った。番拒みの薬まで飲み、それでも一緒に旧祭壇へ来たという話が嘘でなければ、月神殿から教えられてきた《銀狼と黒狼》の形とも少し違っている。扉が三度叩かれた。「入れ」現れたのは、白い祭服の上へ旅用の外套を羽織った男だった。年齢は四十を少し越えたほどで、月神殿の高位神官に共通する銀糸の帯を腰へ巻いている。名はセルディオ。月祠長オルディスの側近であり、レグナードが少年だった頃から何度も月神殿の意思を伝えてきた男でもあった。「レグナード殿下」その呼び方に、レグナードは片眉を上げた。「まだ殿下か。お前たちの話では、俺はいずれ王になるはずだっただろう」「王位を取り戻されるまでは、殿下でございます」「便利な言葉だな」セルディオは皮肉へ反応せず、卓上へ細長い箱を置いた。封は月神殿の白蝋で閉じられている。レグナードはすぐには触れず、椅子へ深く腰掛けたまま相手を見た。幼い頃から、こうだった。父グレイヴァルは正統な黒狼王になるはずだった。ガルディオンに奪われた。反乱ではなく、王位を取り戻す戦いだった。父を殺した王家は簒奪者であり、その血を継ぐヴァルゼインから王冠を奪い返すことこそ、息子であるレグナードの使命だ。物心がついた頃から。何度も。何度も。そう教えられた。母と逃げた村から村へ移り、名前を変えるたび、レグナードは自分が何者なのか分からなくなった。それでも夜になれば、母は首から外した幼児用の銀首輪を見せ、「これはあなたが王家の子だった証よ」と言った。
月祠長オルディス・メルカーンが黒曜王都へ入ったという報告を受け、ヴァルゼインとリュシエナは予定より早く城へ戻ることになった。先ほどまで市場の甘い焼き菓子や、子どもから渡された雪の狼について笑っていた空気は消え、少し先では護衛が周囲を警戒しながら道を開いている。それでも二人の歩幅だけは急ぎすぎず、城下から王宮へ続く坂道を並んで上っていた。オルディスが何のために来たのか、銀狼の封印についてどこまで認めるつもりなのか、考え始めれば聞きたいことはいくらでもある。それなのにリュシエナの胸には、先ほど川辺で過ごした静かな時間の余韻がまだ残っていた。ヴァルゼインも、すぐには政務の話をしなかった。王都へ入った月神殿一行については先行した伝令とセイグが情報を集めており、城へ戻るまでにできることは少ない。普段ならその短い時間すら使って警備配置や面会順を考え始めそうな男が、今日は何度か口を開きかけては閉じていた。共鳴を通して黒狼の気配が僅かに揺れるのを感じても、リュシエナはそこから答えを読み取ろうとはしなかった。七日間、獣魂に頼らず相手を見ることを覚えたからこそ、今もヴァルゼイン自身が言葉にするまで待ちたいと思えた。王宮の外壁が見え始めた頃、ヴァルゼインが不意に足を緩めた。「リュシエナ」「はい」呼ばれて横を見ると、暗い金色の瞳がまっすぐこちらへ向けられていた。戦況を確認する時とも、監査の判断を求める時とも違う視線だった。何かを決めさせるような圧力はない。それでも、これから尋ねられることが軽い話ではないのだと分かり、リュシエナも自然に歩みを少し緩めた。「俺をどう思っている」あまりにも直接的だった。リュシエナは言葉を失った。「……急ですね」「そうだな」「何か理由があるのですか」「ある」ヴァルゼインはそこで一度前を向いた。雪を踏む靴音が二人分、一定の間隔で続く。少し離れた護衛たちは会話が聞こえない距離を保っており、城門までの道には他の通行人もいなかった。「昨日、お前が俺とまた城下へ来たいと言った」「言いました」「今日も、会えば嬉しいと思った」リュシエナが目を瞬く。「それは……共鳴で分かったのですか」「違う」即答だった。「顔を見た」胸の奥が少し熱くなる。「俺も、同じだった」ヴァルゼインは淡々と続ける。「それで、自分が何を望んでいるのかを考えた」
ヴァルゼインに休日がないことへ気づいたのは、リュシエナが王宮の冬季薬糧配給記録と、王付き厨房の食材使用記録を照合していた時だった。本来なら、王の食事そのものを監査する必要はない。けれど冬至祭の暗殺未遂以降、王へ出される食材と薬については、異常な増減がないかだけ定期的に確認することになっていた。その途中、厨房側の帳簿へ残された食事の受領時刻が不自然に偏っていることへ気づいた。朝食が昼近くまで手つかずの日、昼食と夕食をまとめて取った日、夜半に冷えた食事だけを運ばせた日が、あまりにも多い。「これ、いつからですか」リュシエナが帳簿を持ったまま尋ねると、厨房を預かる老女は困ったように眉を下げた。「陛下が即位されてから、ずっとあんなものですよ。食べることを忘れる、寝ることを忘れる、休むよう申し上げれば仕事が残っていると仰る。先代の頃から仕えておりますが、あれほど扱いにくい王様も珍しいです」即位してから。十八歳で王位を継いだ。ヴァルゼインは現在二十八歳だから、十年。リュシエナは帳簿を閉じた。その日の午後、王の執務予定表まで確認して、さらに眉間へ皺を寄せることになった。評議会、軍務報告、司法裁可、各領からの請願、外交書簡、夜間の警備確認。その間に訓練と食事を無理に挟み、深夜にも翌日の資料へ目を通す。休息として記載された日はあるものの、その欄には決まって別の仕事が書き足されていた。完全に政務から離れた日は、少なくとも過去一年間には一日もない。リュシエナは予定表を抱えて、そのまま王の執務室へ向かった。「休んでください」開口一番そう言われ、ヴァルゼインは書類から顔を上げた。「何だ」「休んでください」「聞こえている」「では休んでください」ヴァルゼインは一度、目の前の書類へ視線を落とした。「必要ない」「必要です」「監査官の権限外だ」予想していた答えだった。リュシエナは持ってきた帳簿を机へ置いた。「では、薬糧監査官として申し上げます」ヴァルゼインの眉が僅かに動く。「睡眠不足と不規則な食事による判断能力低下は、王宮全体の運営上の危険です。陛下が判断を誤れば、薬糧配給にも影響します」「無理がある」「ありません」「ある」「ネルーヴァ様にも確認しました」そこで初めて、ヴァルゼインが完全に筆を止めた。扉の近くで資料を整理していたセイグが、
共鳴が戻った翌朝、リュシエナは目を覚ますより先に、遠くにいる黒狼の気配を感じ取った。西棟のさらに奥、王の私室ではなく執務区画の方角に、低く安定した熱がある。七日間、それがなくても一日を過ごせることを知ったはずなのに、戻った気配を見つけただけで胸の奥の銀狼が嬉しそうに身を起こした。リュシエナ自身も、少しだけ口元が緩むのを止めなかった。以前なら、この反応が自分のものなのか獣魂のものなのかを考えるだけで不安になった。けれど番拒みの薬が効いていた七日間、銀狼が静かでもヴァルゼインのことを考え、会えば嬉しくなり、彼の言葉を聞きたいと思った。その事実はもう消えない。共鳴が戻った今、二つの気持ちが同じ方向を向いているからといって、それを疑い続ける必要はないのだと少しずつ分かり始めていた。午前の仕事を終えた頃、王付きの侍従が短い書面を持ってきた。内容は面会の申し入れで、場所はネルーヴァの治療室に隣接する小応接室と指定されている。文末には《身体と獣魂に関する話をしたい。ネルーヴァにも同席を頼んだ》とあり、リュシエナは何を話すつもりなのかおおよその見当がついた。指定された時刻に応接室へ入ると、ヴァルゼインはすでに窓側の椅子へ座っていた。ネルーヴァは卓上へ三冊の古い記録を並べ、いつものように面倒そうな顔をしている。共鳴が戻ったせいで、部屋へ入った瞬間に黒狼が銀狼へ意識を向けたことまで分かったが、ヴァルゼイン本人は立ち上がらず、リュシエナが自分で席を選ぶのを待った。「話とは何でしょう」向かいへ座って尋ねると、ヴァルゼインは遠回しにせず答えた。「番契を結ぶつもりはあるか」リュシエナはすぐには答えなかった。黒狼がその言葉へ強く反応し、胸の奥の銀狼も一瞬で身を乗り出したのが分かる。互いの獣魂だけなら、答えは最初から決まっているのだろう。近づきたい、結びたい、相手を自分の番として確かな形へしたいという欲求が、共鳴を通して鮮明に伝わってくる。それでもヴァルゼインは、何も促さなかった。「これは求婚ですか」「違う」「王命でも?」「違う」「番だから当然に結ぶものだと?」「それも違う」そこでリュシエナはようやく息を吐いた。聞かれているのは承諾だけではない。拒否も、保留も含めて、自分で答えを出すための確認なのだと分かった。「結んだら、何が変わりますか」ヴァルゼインの視線がネル
《番拒み》を飲んでから七日目の朝、リュシエナは目を覚ますと同時に、自分の胸へ手を当てた。まだ静かだった。銀狼は確かにそこにいるが、ヴァルゼインへ伸びていた共鳴だけは薄い膜の向こうへ隠れたままで、彼が王宮のどこにいるのかも、眠っているのか起きているのかも分からない。七日前にはその空白が胸を抉るように感じられたのに、今はもう、この静けさの中で自分の感情を探すことにも慣れていた。会えなくても一日は過ごせるし、共鳴がなくても仕事はできる。それでも、今朝最初に考えたのが彼のことだった事実を、リュシエナはもう否定しなかった。午前中、ネルーヴァの診察を受けると、治療師は薬瓶と脈拍記録を見比べながら眉を寄せた。「今日の夕刻から夜にかけて、ほぼ確実に切れるわ」「時間までは分からないのですか」「体格と獣魂の強さで差が出るもの。あなたは完全変身したばかりで銀狼も強いから、普通の例をそのまま当てはめられない」ネルーヴァは記録を閉じると、今度は少し厳しい目を向けた。「だから、戻る瞬間だけ二人を分ける」リュシエナは思わず顔を上げる。「会わない方がいいのですか」「会うなとは言ってない。戻る瞬間に隣へ置かないだけ」薬によって七日間弱められていた共鳴が一気に戻れば、銀狼も黒狼も反動で強く相手を求める可能性がある。完全変身後のリュシエナは以前より獣魂との境界が薄く、ヴァルゼインもまた黒狼の欲求を抑え続けている。その二頭を目の前へ置いた状態で共鳴だけを突然戻せば、理性より先に身体が動く危険があると説明された。「別々の部屋で待って、戻ったことを自分で認識する。それから、会いたいなら出ればいい」ネルーヴァの言葉へ、リュシエナは静かに頷いた。「陛下も?」「同じ説明をしたわ」「何と?」「分かった、ですって。いつも通り」少しだけ笑いそうになる。姿を見なくても、その返事だけは想像できた。午後になると、王宮西側にある二つの静養室が用意された。長い回廊の両端近くに位置し、互いの部屋は扉を開けても直接見えない。間には人の歩幅で五十歩以上あり、ネルーヴァと数人の治療師が中央付近で待機することになった。扉には鍵を掛けない。獣魂を閉じ込められたと感じさせないためであり、出るかどうかも本人たちへ委ねられていた。部屋へ入る前、リュシエナは回廊の反対側を見た。ヴァルゼインはもう自分の部屋へ
王家文書庫で見つかった《銀狼が再び生まれれば、黒狼王家の封じられた契約が開く》という一文は、その翌日から調査の中心になった。ガルディオンが月神殿へ銀狼の封印を黙認した時代より、さらに古い記録であり、ヴァルゼインが生まれる前どころか、先王自身がまだ幼かった頃に書かれた報告書だった。問題は、その文中にある《封じられた契約》が何を指すのか、現在の王家文書官ですら即答できなかったことだった。法的な契約を示す文書なら索引に残っているはずなのに、その名に対応する記録が見当たらない。「王家の契約なら、なぜ索引にないのですか」リュシエナが尋ねると、古文書官は困ったように白い眉を寄せた。「契約という語が、現在使われている法的な意味とは限りません。古代語では、盟約、誓約、祭祀、共同統治まで同じ語で記される場合があります」「つまり、名前から探しても見つからない」セイグが言うと、古文書官は頷いた。「ああ。関連する時代を広げるしかない」それからさらに二日、王家文書庫だけでなく、旧祭祀記録、黒曜城建設以前の群れの記録、王都地下神殿から移された石板の写しまで調べることになった。リュシエナは朝から夜まで机へ向かい、銀狼、白銀、月狼、鎮魂、共鳴という語が出るものを一つずつ拾った。ヴァルゼインも王務の合間に加わり、セイグとエルグラドが年代と出所を整理する。古文書は現在の文字と形が違ううえ、同じものを指す言葉も時代ごとに変わるため、わずかな記述を辿るだけでも何冊もの記録を照合しなければならなかった。三日目の午後、最初に見つけたのは王家の記録ではなく、現在の王都より北にあった古い集落から移された石板の写しだった。文字は摩耗し、半分ほど欠けていたが、中央には二頭の狼が向かい合う図が残されている。一頭は黒、もう一頭は銀で、その間には二つの月が刻まれていた。片方の月が欠け、もう片方が満ちる形は、現在の黒曜王家にも月神殿にも残っていない意匠だった。「双月」リュシエナが小さく読むと、古文書官が隣から頷いた。「《双月盟約》です」その名を口にした瞬間、胸の奥の銀狼がはっきり反応した。番拒みの薬がまだわずかに効いているため、ヴァルゼインの黒狼の気配は薄い。それでも銀狼自身が、知らないはずの言葉へ耳を立てるように意識を向けた。懐かしいものを聞いた時のような反応に、リュシエナは胸へ手を当てた。「知







